"玉"を選ぶのに苦労する

 小森収の「傑作書評」を読み直す(3・1996年6月号)

 ミステリマガジン1996年6月号の書評の冒頭で小森氏はぼやいている。

 近年のアメリカ産のミステリは,数だけ多くて,石ばかり。玉を選ぶのに苦労する。しかも,クズのクズたる理由が判で押したように,みな同じ。どれも同じようなモノの考え方(同じような上昇志向。同じようなドロップアウト)の人間が同じようにステロタイプな描写で描かれる。
 思うに,そういう時代だったのであろう。
 ミステリに限らず,映画などの他の表現もそういうものが多かったのではなかろうか。
 講談社文庫が,パトリシア・コーンウェルの「検屍官」で成功して以降,1990年代は翻訳ミステリの出版ラッシュに突入して行ったので,やたら数が多かったのはそのせいなのだと思う。

 この月の傑作の1冊目は

 バリー・リード著「起訴」(早川書房)
である。
 B・リードと言えば,私は,かつて「評決」を読んだことがある。
 法廷ミステリ5作品を読み比べてみようと決意して,リチャード・N・パタースン「罪の段階」,スコット・トゥロー「有罪答弁」,ジョン・グリシャム「評決のとき」,B・リード「評決」,スティーヴ・マルティニ「重要証人」を読んでみたのであるが,その中では「評決」が最も読み応えがあった。
 登場する中年の弁護士フランク・ギャルヴィンが非常に魅力的だったのである。
 「評決」は,これこそ弁護士の心意気というような見事なところを見せてくれたおもしろい小説だった。
 そのB・リードの作品であるから,大変期待できそうな作品である。
 「起訴」も弁護士が主人公の作品であるらしい。
 小森氏の評によれば
 単純な法廷ものではない変化球として一読に値するくらいの傑作ではある
とのことである。
 私にとっては,「評決」の好印象もあるので読書リストに加えておくことにしようと思うが,これも絶版である。
 いつか再版される可能性はあるのであろうか。

 2冊目の傑作は

 チャールズ・キング著「盗聴」(講談社)
である。
 家族皆殺しの連続殺人犯に兄一家を虐殺された刑事が,その殺人犯を追う物語らしい。
 この殺人犯は,語学の達人で,そこを買われてCIAにスカウトされて非合法活動をしていた男で,母親から性交渉を強要された過去を持ち,そのためにまともな女性関係を持つことが出来ずにいるという人物であるとのこと。
 小森氏は,「アメリカ人が最初に思いつきそうなアイデアが羅列され,そのレベルで,逐一,一応のつじつまが合わされる。」と指摘している。
 最終的な,小森評は
 トマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」を読んでいれば,それで済むような傑作
だそうだ。
 そうか,それなら,そのうち「レッド・ドラゴン」の方を読むことにしよう。

 3冊目は

 サンドラ・ブラウン著「心までは消せない」(新潮文庫)
である。
 臓器提供を受けた患者が連続的に殺される連続殺人事件を描いた小説らしい。
 小森評は
 ミステリというよりは,犯罪メロドラマ(または,ロマンス犯罪付)
 臓器提供を受けた患者の連続殺人なら,ボアロー&ナルスジャックの「私のすべては一人の男」というのがあって,それを読んだほうがずっと幸せな傑作
とのこと。
 「私のすべては一人の男」の方を読書リストに入れておこう。
 しかし,皮肉なもので,「私のすべては一人の男」は絶版のようである。
 「心までは消せない」の方は,まだ絶版になっていないのに。

 4冊目は 

ジャネット・ドーソン「憎しみの絆」(創元推理文庫)
である。
 小森氏が,「作家としての彼女の姿勢に共感させるものがあって,その分読める。」と珍しく好意的な評価をしている。
 ただ,その姿勢が,小説技法あるいはミステリ技法の中で生きていないらしい。
 小森氏の最終的な評価は
 今後の精進を期待したい傑作
だそうだ。

 結局,この月の4作の傑作の中では,「起訴」のみが読書リストに加えてもいい作品ということになりそうだ。
 ただ,それ以外に「レッド・ドラゴン」と「私のすべては一人の男」も読むに値する作品である可能性が高いようだ。

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ミステリ爆発のための環境整備

 小森収の「傑作書評」を読み直す(2・1996年5月号)

 ミステリマガジン1996年5月号で,小森氏は「いま,読みたくないミステリワースト2」を発表した。
 1つは,「主人公がアル中もしくはヤク中(元アル中・ヤク中もそれに準ずる)」,もう1つは,「主人公が高学歴の持ち主で,それを生かす職業についている」である。
 たしかに,翻訳ミステリには,そういう妙な作品が異様に多かった時期がある。
 良くも悪くもそういうものが"アメリカ的"だった時代があるのだろう。
 本格志向だった私は,そういう流行の現代ミステリには背を向けていたのだけれど。

 小森氏は,また,「数年後にミステリの世界には必ず才能がひとかたまりで爆発する時が来る」と予言し,いま必要なのはその時のための環境整備であると主張している。
 それから10年が経過した今から振り返って,そういう爆発があったというべきなのかどうか,ミステリの現代史については私は十分な認識がないが,以前よりも一般の人のミステリに対する関心は強くなったような気はする。

 この月の「傑作書評」の1冊目は

 マイクル・ディブディン著「闇の幽鬼」(ハヤカワ文庫)
である。
 このころ,ディブディンがかなりはやっていたことを懐かしく思い出した。
 作品自体は,アメリカ全土をまたにかけた動機のない連続殺人事件が描かれ,それと平行して「私」を襲う悲劇が描かれるという筋書きらしい。
 小森氏は,この前半3分の2が読者を引き込む勢いのあるとてもおもしろい物語であることを強調している。
 ただ,問題点は,ミステリとしてのカタルシスに欠けることらしい。
 「私」や何人か登場する警察官のヒーローとしての活躍が不十分だからであり,ディブディンはそれをリアルでないと考えているのであろうと小森氏は述べている。
 基本的に,カタルシスを欠く物語は苦手な私であるが,それにしても小森氏がここまで熱く語っているからには,何か面白い点があるのだろう。
 小森氏は,この傑作について
 たいへん面白い小説だが,同時に,ミステリとして破格である点も考えてみる価値がある
と評している。
 これは気になるので,私の読書リストに入れておくことにする。

 2冊目は

 デイヴィッド・L・リンジー著「届けられた6枚の写真」(新潮文庫)
である。
 ある警察官の元に差出人不明の封筒が届けられ,その中に写真が入っているという不思議な出だしで始まり,次々と届けられる写真とそこから展開する事件の物語らしい。
 なるほどおもしろい出だしだと思ったが,小森氏曰く「面白いのはここまで」らしい。
 小森氏の評は
 竜頭蛇尾の傑作
だそうだ。
 これは読む必要がないだろう。

 3冊目は

 バチヤ・グール著「教授たちの殺人ゲーム」(イースト・プレス)
である。
 bk1によれば,ヘブライ大学でヘブライ文学を専攻した学者さんが書いたミステリ小説らしい。
 このころはいろいろな人がミステリ小説を書くことに手を染めたのだなと思う。
 新刊の時の帯の文句には「[超難解]知的ミステリー」と書かれていたそうだが,そういうあおり文句を見ると,かえってうさんくさく感じてしまう。
 小森評は
 アカデミズムを背景とした,知的ミステリを読んでいるんだという,スノビズムを満喫したい人向けの傑作
である。
 どんな経歴の人がミステリを書いてもいいのだけれど,著者の珍しい経歴だけが売りということになると寂しいものである。

 4冊目は

 スーザン・ケリー著「偽装殺人」(原書房)
である。
 bk1によれば,この作者は,「マサチューセッツ州刑事関連教育協議会のコンサルタントおよびケンブリッジ警察アカデミーの講師」という肩書きの持ち主らしい。
 また,著者の珍しい肩書きだけが売りなのか・・・。
 小森氏曰く,「会話がメインのスピーディな展開は,巧く運べばガードナーの良質の作品みたいになるが,何じゃ,これは」。
 最終的には
 軽いことがバカであることの見本のような傑作
と評している。
 これほど酷評されているが,なんと,まだ絶版になっていない。
 しかし,この傑作を読むよりは,E・S・ガードナーの作品を読みたいような気がする。

 この月の4冊の傑作の中では,「闇の幽鬼」を読めば良さそうだ。
 カタルシスはないけれど途中まで快調だというその魅力には大変興味がある。
 もっとも,この作品は現在絶版なので,いつどうやって入手するかが問題である。
 ディブディンは,一時期あれほどもてはやされたのに,時代が変わるとこれほどの状況になってしまうのか。
 そう考えると,ほぼ全作品が常に書店の店頭に並んでいるアガサ・クリスティーの偉大さがよく分かる。

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翻訳ミステリは傑作ばかり

 小森収の「傑作書評」を読み直す(1・1996年4月号)

 ミステリマガジン1996年4月号で小森収氏の書評が始まった際,最初に取り上げられていた作品は

 アビイ・ペン・ベイカー著「冬のさなかに」(創元推理文庫)
であった。
 アイリーン・アドラーに娘がいたという設定で,その娘を主人公にして書かれたシャーロック・ホームズもののパスティーシュ作品である。
 小森氏によれば,作者は物語の途中まで主人公の父親がシャーロック・ホームズであることを伏せているらしいのだが,この訳書の副題が「ホームズ2世最初の事件」となっているのでその作者の意図は台無しである。
 小森氏は,この作品について
 ホームズ関連は何でも読むという人,クラシックな雰囲気があれば,それだけでいいという人が読めばよい傑作
であると述べて酷評している。
 個人的には,ブライアン・フリーマントルの「シャーロック・ホームズの息子」という作品を読んだときに思ったのだが,ホームズに子孫がいたというパターンのパスティーシュは,どうしてもホームズが正典よりも感情的な人間に見えてしまって,なかなか成功しづらいように思う。

 2冊目は,現職判事だった著者が書いたリーガル・サスペンス作品というふれこみの

 ウイリアム・コフリン著「逆転敗訴」(講談社文庫)
である。
 小森氏の評は,「全体の陰謀がガラス張り。いかにも怪しく動くヤツがいて,事実,そいつが怪しい。プロットが弱い。」と手厳しい。
 そして,小森氏の最終的なまとめは
 ミステリというより,犯罪メロドラマで,読みやすいのが取り柄の,暇でしょうがない人が読むといい傑作
らしい。
 このころ,リーガル・サスペンスと称する作品がはやっていたので,その流行に乗って必ずしも厳選されないまま多くの作品が翻訳されたという背景事情があるのだと思う。

 3冊目は,ニューヨークのユダヤ人コミュニティでの殺人事件が扱わる

 デーヴィッド・ローゼンバウム著「ツァディク」(福武文庫)
である。
 小森氏曰く
 ユダヤものなら何でもという人か,長きゃいいという人にだけ薦めたい傑作
であるとのことである。
 この辺りになるとかなり手厳しい評価である。

 4冊目は,87分署シリーズの45作目に当たる

 エド・マクベイン著「悪戯」(早川書房)
である。
 電話魔でも登場したデフ・マンが活躍する作品らしく,小森氏は
 「悪戯」は野心作ではなく,並みの87分署ものだと思うけれど,今月の4本の傑作の中で,人に推薦するとしたら,これだろう
と述べている。

 結局,「傑作書評」の最初の月に紹介された4作の傑作の中で,肯定的評価を得られた傑作は「悪戯」だけだったのである。
 それも手放しの肯定的評価というわけではなく,一応,一読の価値があるという程度の評価に過ぎない。
 この4作については,敢えて私の今後の読書リストに入れる必要はなかろう。
 興味深いのは,10年たった今,これら4作についてbk1で検索したところ,「悪戯」以外の4作品は全て絶版状態だったことである。
 「悪戯」の場合,シリーズ物であるから絶版になりにくいという事情もあると思うが,酷評された傑作は全て絶版であるというのがなかなかおもしろい。
 やはり,だめなものはだめということなのか。

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小森収の「傑作書評」

 小森収の「傑作書評」を読み直す(序)

 早川書房の「ミステリマガジン」という雑誌には,毎月,出版された翻訳ミステリ作品の書評が掲載されている。
 各書評家に一人当たり月に4作品が割り当てられており,それぞれの書評を書く人がかなり自由に意見を書いているようで,作品を酷評している場合も少なくない。
 私の場合,普通は,自分が読む予定の作品について先入観を持ちたくはないので,特に興味がある作品が掲載されているときはなるべく書評を読まないようにしているのだが,気になる書評があるときも例外的に存在する。

 1996年から1997年にかけて,小森収氏がミステリマガジンの書評を担当していたことがある。
 小森氏は,1996年4月号で

 翻訳ミステリとは,優秀な編集者・翻訳家が,まず本国で活字にする価値ありと判断されたものを,さらにふるいにかけ,吟味し,腕によりをかけて翻訳したものであるから,愚本駄本の類であるはずがなく,翻訳ミステリは傑作ばかりであるはずである
と歌い上げ,その後,全ての作品について,それらがいかに傑作であるかを語る書評を書いていた。
 この小森氏の「傑作書評」は舌鋒鋭い見事な書評であり,当時,個人的には毎回かなり楽しみだった。

 私自身のミステリに関する読書は基本的に古典中心であるので,当時,小森氏の書評で紹介された本を読むことはあまりなかった。
 しかし,厳しい選択眼を持つ小森氏が推薦するミステリを読んでみるのは大変価値のあることであるように思う。
 また,小森氏のこのユニークな書評から既に10年が経過したのであるから,当時出版された各作品が時代を経てどのような状況になっているのか,ひとつひとつ確認してみたいという気持ちにもなった。
 そこで,ミステリマガジン1996年4月号分から一月分ごとに「傑作書評」を振り返って整理してみることにする。

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